ドモボーイ雑記

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(エルデンリングポエム)外なる神

 どもども。考察カテゴリに入れてますが今回はポエムっぽいやつです。考察書いてたらいつの間にか出来上がったものです。ボツにするのもアレなんで投稿しました。意味分かんない感じなのでトイレで気張ってるときにでも読んで頂けたらと思います。

 

外なる神について

 エルデンリングの世界では「外なる神」という存在がテキストで現れてくる。しかし実際の容姿は分からないし目に分かる形での影響もない。この「外なる神」という存在、一体なのだろうか?という訳で、その存在について少し回りくどく論じてみる。

 まず、エルデンリングのゲームの話ではなく私たちが住んでいる現実世界のことについて話していく。人間に限った話ではないが、私たちが生きているこの世界では命あるものいつしか死んでいく。合理的に考えれば、この死という現象は進化の仕組みの一部と捉えることができる。生き物は、日々世代毎に変化する環境への適応を強いられており、適応できなかったものは死に、適応できたものは子孫を残し(子孫を残したものが適応できたと言った方が良いかもしれない)…そして残された子孫も、また環境適応を強いられ、”死”と”子を為す”という分岐した道を選択していく。もし生物に死が無いとなればどうなっていただろうか?人間の遠い祖先としてカンブリア紀ピカイアがいるが、もしそのピカイアが不死であった場合どうなっていただろう?どんな環境でも死なない…それはもう、これ以上環境適応の必要はなく子孫を残さない存在ではないだろうか。そうなると、今ここに存在している人間も存在していなかっただろう。もちろん多くの生物がこのピカイアから枝分かれし産まれてきたのだから、今生きている人間だけでなく地球上に現存する多くの生物は誕生していないだろう。しかし、そのピカイアは実際には不死ではなく様々な個体を生みこの世から去っていきました。そしてまたその生み出された個体が自然淘汰の篩いかけられ生き残ったものが、また、自分とは似ているが少し違った個体を生み出し…これを5億年もの長い間繰り返し、私たちという人間がここに存在する。そして現代の私たちも、冷酷ですが、その進化という過程を強いられている訳である。

 しかし、進化や統計などの視点から合理的に私たち人間の存在を見て、進化の過程上、死は仕方がないと思ったとしても死というものはやはり中々受け入れがたいものである。多くの人は、大切な人の生死を別つ場面では神に祈ったり、安寧の地への赴きや輪廻転生を願わざるおえない。そして、それは恐らく、死のルーンという存在を知っている”神”とて例外ではないのではないだろうか。神という存在も死や大切な人への不幸を恐れ、自分たち神の世界の外の神「外なる神」を信じ祈ったのではないか。